2011年1月15日土曜日

TOKYO BOOT UP!2010 マレー・ラナー監督の基調講演要約(その1)

現在次回のTOKYO BOOT UP!の企画立案をしているところですが、
前回の資料が壊れたピュー太の中で生き埋め状態で四苦八苦しています。
メールの履歴を一つづつチェックして添付ファイルを探し、それを保存して縫い合わせをして、
記憶とファイルを接着しては少しずつ思い出してはまた反省することばかり。つくづくバカバカバカです。

さて見つかった大事なファイルに、基調講演のテキストがありました。
志津香さんの手が空いたところでホームページ上にアップしてもらいますが、いちはやく当ブログで公開をしましょう。

まずはその1。
ではどうぞ。


TOKYO BOOT UP! 2010 及びTHE 音楽映画祭開会式 基調講演要約
日時:2010年9月3日 
会場:東放学園映画専門大学院大学 201号教室



「映画とは音楽である」           
講演者:マレー・ラナー監督

本日の講演の中でキーとなる部分に言及する事が、ここでの役割だと理解しています。
基調演説では、私なりの映画、とりわけ音楽関連の映像作品の制作に置けるアプローチ方法を説明するべきと考えています。
まず初めに「私の映像制作に置ける基本的な要素」を説明しましょう。

■空想 vs 現実
映画は2Dであれ3Dであれ、全て空想であり、現実ではないと私は思っています。
その昔、映画は1インチのレンズで人間の目の高さでの撮影が絶対的基準と考えられていました。現代では600ミリのレンズ、望遠や広角レンズなども使われています。
映画とは、制作者の眼と手によって歪められた現実を伝えるメディアです。
大切なことは、制作者がこのポイントを理解しているかという事です。映画とは絵画の様に、文学作品の様に空想なのです。
特異な例を挙げますと、昨今の3D作品で観客達は、前述の手法と音楽の使い方に魅了されていると言えます。私の3D作品に置けるアプローチは2Dの作品をよりリアルに作り出す事ではなく、全く違った新しい形の空想世界を作り出す事にあります。これを理解せずに、大量に人員を投入し、単に3Dカメラを使って作品を撮った所でつまらなくなるだけです。最近公開された「U23D」はそういった失敗を犯してしまった作品だと個人的に思っています。私はそれと2D、写真撮影は同じで、現実ではなく、現実の再現でもない、レンズを通して現実を歪めたものと感じています。
例えば、遠くのマイケル・ジャクソンがムーンウォークをしている所を見ていると考えてみましょう。思い浮かべてみてください。静止したワイドなショットかもしれません。マイケルの顔や手のアップに徐々にズームインしていくというのも良いでしょう。魚眼レンズの様な超広角レンズ(私達はDistortionと呼んでいます)を使うことでも有りです。スローモーションや高速再生を使う手もありますね。
あらゆる技法には様々な使い道があり、絵の写り方はカメラマンにより変わってきます。そうして撮影された映像は、私達の見ている現実とは同じにはなりません。人間の眼は静止したカメラとは違い、風景から風景へ、どのカメラよりも素早く動き、眼に映るイメージを混ぜ合わせ脳内で3Dに変換しているからです。
この様な前提を元に、私は心の中で描いている音楽の流れやイメージを、編集やカメラで表現しています。
さて、私の映画制作に置けるもう一つの基本的要素を付け加えましょう。音楽は映画にとって魂である、という事です。別の言い方をすれば、映画とは音楽なのです。
映画とは時間的手法であり、全ての時間的手法は「音楽による時間」によってコントロールされるべきだと思うのです。
音楽とは時間という次元に存在する唯一のメディアです。したがって、私にとってカットの移り変わりは音楽に関わってくるのです。
映像のカットが移り変わっていく様は音楽的な感性によってコントロールされるものです。それはメトロノームのリズムの事では無く、編集過程での実験にあります。
一口に時間と言っても色々な種類があります。
時計における時間は、客観的に具体的に何分経ったかを教えてくれますが、体感上の時間というのもあります。個人の主観的な時間、時間の流れを我々がどう感じたかという事です。
この二つの時間のコントラストが作品に大きな影響をもたらす事もよくあります。音楽のリズムがミュージシャンの動きと異なっているシーンでは、激しい興奮状態を訴えかける事が出来ます。
こういった考え方は抽象的に思えるかもしれませんが、編集作業だけではなく、作品内での音楽の表現に大きく役立ちます。

つづく

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