2011年1月16日日曜日

TOKYO BOOT UP! 2010 マレー・ラナー監督基調講演要約 (その2)

■映像に関わる経緯について
ここで少し私が映像作品に携わる様になった経緯を説明させて下さい。
私はハーバード大学で現代文学や詩を勉強していました。主に現代詩学、とりわけT・S・エリオット、エラ・パウンド周辺のアヴァンギャルドな作家達に惹かれていました。私は論文の中の一文で、ロシアの映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインについて言及する事にしました。エイゼンシュテインは日本映画についての論文を書いており「当時の日本映画は尊大で使い古された手法ばかりだが、日本文化には映画製作において新しい種を内包している」と語っています。いくつか例を挙げると、二つの異なる文字を組み合わせて別の意味が出来上がる漢字。そこからヒントを得て生まれたモンタージュ編集。物事を急進させる為の相反する物の連続的な衝突。これらは現代詩におけるムーブメント(音楽においても)の本質だと思い、映画に詩の感性を取り入れようと思い立ちました。当時の私はアメリカのルーツ・ミュージックに惹かれ、詩とは言語の中の音楽であると信じていました。
この論文が私を映像の世界へと導いたその日にあるヴィジョンが見えたのです。それは詩と音楽、ブルースとフォークの社会意識をブレンドし映画にして、人生観における新しい表現を作り出すことでした。この方法で詩と音楽、個々では不可能であった程、大勢の人にアピールすることができると考えました。それからすぐに、目指す未来の地平線の向こうにはボブ・ディランとレナード・コーエンがいるのだと気付いたのです。

それでは、私が皆さんの注目を浴びる事になった音楽ドキュメンタリーについてです。
どうやって私は音楽が映画制作における核だと理解できたか。
初めての音楽ドキュメンタリー作品「フェスティバル」の製作中に、私はマーシャル・マクルハーンの作品を読み、メディアはメッセージであるという主張に惹かれました 。すぐにマクルハーンの主張を作品に取り入れる事にしました。そして、音楽と音楽ムーブメントについての作品であっても、作品自体を一つの曲として扱う事にしました。新しいシーンを入れた時には、すぐに冒頭から見直して、作品が音楽として機能しているか確かめたりしたものです。
ナレーションは入れずに、作品を音楽と登場人物の会話で構築しました。私はエイゼンシュテインのモンタージュに傾倒し、機能しうる範囲で、予想も出来ない様な曲と曲を繋いでみたりしました。例えば、ボブ・ディランがエレクトリックに走った後に、全くエレクトリックで無い曲をつないだりしました。特にそうした事に理由はなく、ただこれで正解なのだとその時に感じていたのです。ヴェネチア映画祭の上映会では、千人あまりの観客が、手を叩いたり踊ったりしてくれました。
時間が経っても新しい可能性は常に意識していました。私は教育における考え方の作品を撮った事があります。私なりの主張を、ナレーションを入れずに、ポール・バターフィールドの音楽を用いて、音楽の流れで表現しました。
3D作品においては、イメージが観客とスクリーンを行ったり来たりする、催眠術のダンスの様な方法を個人的によく使います。
編集作業の過程では音楽性を取り入れる事を意識し続けています。これは言葉では表現しにくいのですが、編集中はリズムと常に調和している事、シーンの長さが変化する事で、そこに内包されているリズムが変化する事を忘れずにいて欲しいと思います。
映画は現実ではなく作り出された空想という考えに関連することですが、編集作業は私独自の流れで行いました。「フェスティバル」がその初めての作品です。時系列は一定ではありませんが、アメリカの若者が作り出した音楽のムーブメントの終焉というテーマを表現できたと思います。
ライブ映像作品でも、時系列は一定にしていません。
それぞれの曲が見せられるべきベストなタイミングがあると私は信じており、その信念に従ってシーンを構成しました。
例えばワイト島でのザ・フーを扱った作品です。ザ・フーは実際のコンサートではトミーをコンサートの中盤で披露しました。最初のラフ・カットが終わった時、トミーを中盤に演奏した事で、ライブのドラマ性が失われてしまっていると感じました。そこで私は作品の中でトミーを終盤に持ってきました。周りの熟練スタッフや編集者からも意見が出ましたが、私の決断が作品を一段上のレベルへと押し上げたと確信しています。(ピート・タウンゼントもこれに賛成しています)

つづく

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